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2023年4月27日 (木)

(109)ハックルベリー

ハックルベリー(ナス科)花期(8月~9月ごろ)

私が、南瓜やジャガイモを植えている畑に、雑草として「イヌホオズキ」が、あちこちにある。

このイヌホオズキを見ると、マリちゃんのことを思い出す。

3年前のある日、幌延の下沼に「ヒシクイが来たかなぁ」と、観察に行った。その帰り、豊富町のマリちゃんの家の前を通ってみた。玄関の横の窓の下に見かけない植物が植えられていた。

そこで、声をかけてみた。数年前から ご自分のお母さまの介護をしていたので、たいていは、在宅している。「マリちゃん、この植物なぁに?」と聞いてみた。

「ハックルベリーっていうの。種を貰ったから植えてみたの」と、言う。聞きなれない名前だった。「これ、巨大だけどイヌホオズキに似てるね」と言ったら「さすが!その種類なの」と、言う。「イヌホオズキ、有毒だと思ったけど、大丈夫なの?」「ジャムにしたら大丈夫らしい。あげるよ」と5個ぐらい実を貰ってきた。

その翌年の冬、お母さまは、98歳でなくなった。仏前に、お参りさせていただいた。

そのとき、マリちゃんが「母は、本当の老衰で亡くなったの。眠るように逝ったの。亡くなる、ちょっと前に、私の人生、幸せだったと、言ってくれたの」と、涙ぐんで言った。

その一年前に亡くなった、お父さま。その両方の介護に対する心からのお礼の言葉だったのでしょう。

そんな、マリちゃんが、21年の暮れ「重い病気らしい。豊富の病院にいる」と、教えていただいたのだが、12月の雪道は、なかなか見舞いにも行けなくて、気を揉んでいた。

翌年の1月 マリちゃんが亡くなったと連絡があり、夫のサトシさんに電話してお花を届けさせてもらった。マリちゃんは、69歳だった。

ご自宅で、ピアノ教室もしていたマリちゃん、会社経営のサトシさんの人柄もあり、大勢のお参りがあったと聞いた。最近の私は、冬は豊富まで車を走行させるのが、しんどい。しかも、夜は怖い。葬儀の参列も出来ず申し訳ないことだった。

四十九日を終えたとき、サトシさんからお手紙が来た。自分の余命を知ったマリちゃんが、闘病中の1年半、家事などまったくできないサトシさんに、しっかりと教え込んだと書いてありました。一人遺されるサトシさんが何より心配だったのでしょう。教える方も、教わる方も、どんな気持ちだったのでしょう。このお手紙に、自然観察などでの仲間たちも、みんな涙した。

昨年の12月のある日、道路状態もいいので もうすぐ一周忌だなぁと、お花を持って訪ねた。

ちょうど、お昼どきだったのでサトシさんは、タイマーをかけて麺を茹でているところだった。

「しっかり、やっているのね」と私が言うと「うん、やってる。だけど最近は、忘年会の誘いが多いんだ」と笑っていた。前年は、忘年会どころでなかったのでしょうね。

最近は、私よりも ずっと若い人が亡くなる。本当に、悲しいことだ。

 

<遺されし椅子が寒いと言ってゐる>2022.1月

<あの人もこの人も逝き山眠る>2022.12月

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2023年3月29日 (水)

(108)「蝦夷の跋扈柳」(エゾノバッコヤナギ)

エゾノバッコヤナギ(蝦夷の跋扈柳)(ヤナギ科)花期3月~5月ごろ

こちらでは、あの白い芽の、いわゆる猫柳は見当たらない。少し芽が黒ずんだエゾノバッコヤナギ(ヤマネコヤナギ)が多い。ほかの柳の木もあるが、種類はよくわからない。

すぐに、わかるエゾノバッコヤナギは、けっこう、あちこちにある。

私の生家は、昭和33年12月に全焼した。父は、顔面火傷をしたので顔も腫れて 眼も見えなくなり、豊富温泉まで汽車に乗って一人で療養(治療)に行った。とりあえず、近所の人や親戚の人たちで牛舎の一部を改造して寝るところと食事をするところを造ってくれた。

お正月の餅も、近所の人が搗いてくれた。父の留守中、村中が面倒みてくれた。

数日、親戚とかに あずけられていた妹たちも帰ってきた。寝たきりのおばぁちゃんも すぐそばにいた。家族12人、狭いところに寄り添って暮らした日々も、今となれば懐かしい。

父は、眼が見えるようになり帰宅した。豊富温泉と「馬の油」だけできれいに治した。

山林の木を伐って薪を売りながらも、父は、何も言わなかったが、新しい家を建てることを考えていたみたいだ。ある日、父は「天塩までブロックを買いに行く。天塩大橋を渡ってみるか」と言って馬車で出かけた。「え?今度は石の家なの?まるでブーフーウーのお話のようだ」と妹と驚いた。

平成の初めごろ、私は、バードウォッチングなるものを覚えた。幌延から少し南に行った、天塩の振老(ふらおい)と言うところまで、春一番に渡ってくるヒシクイを観るために、出かけた。雪解けが進んだ牧草地や沼に、ヒシクイは渡りの中継地としてやってくる。ヒシクイが空いっぱいに飛び、別世界のような光景に魅了された。

幌延町と、天塩町に架かる橋「天塩大橋」。自分の運転で、初めて渡ったときは、父も馬車で渡ったのかと思うと、感慨深いものがあった。

「天塩大橋」が出来たのは、昭和32年。それまでは、渡船だったらしい。

天塩川の川沿いに「青木渡船場跡」と言う看板の隣にあったエゾノバッコヤナギが、ふっくら、膨らんでいて まるで、語り部のようだと思った。ロマンがある渡船の風景も見てみたかった。天塩川は、北海道で2番目に長い川。悠久のときを流れる天塩川。暴れ川でもあったと言う天塩川。令和2年10月に素晴らしい「新天塩大橋」が出来た。

想い出がいっぱいの旧天塩大橋は、壊されるのだろうか 寂しい。

 

 昭和34年、父は、一人でコツコツ、ブロックを積み、家を建て始めた。外壁が出来たら、内装もすっかりできないうちに引っ越した。おばぁちゃんも、ベッドごとみんなで運んだ。

その石の家から、妹たちは、就職、進学と旅立って行った。私も、結婚のため家を出た。

昭和39年には、おばぁちゃんの棺を出した。

天塩川、渡船、天塩大橋、天塩ブロック、昭和は、どんどん遠くなってゆく。

 

膨らんだ、エゾノバッコヤナギを、見つけると、いつも一枝折って持ち帰りたい私。

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2023年3月 2日 (木)

(107)「板屋楓」(イタヤカエデ)

イタヤカエデ(板屋楓)(ムクロジ科)(カエデ属)花期6月

北海道のものはエゾイタヤとも言うらしい。

野山を彩るものに、若葉、エゾヤマザクラなどと同じぐらい紅葉も美しい。

最北の紅葉は、ナナカマドとツタウルシ、ヤマウルシ、イタヤカエデが松の緑とコラボして野山を彩る。毎年、秋になると「今年の紅葉はどうかな?」と気になる。

紅葉が美しくなるのには、気温の差が大きい方がいいとも言われている。

最北には、あまり種類が見当たらないが、少し南下した名寄とか、美深とかには、ハウチワカエデなどがある。初めて葉っぱを手にしたときは、少し驚いた。花も、きれいだ。

 

稚内では、裏山と呼ばれる「育みの里」の第二貯水池の紅葉は見事だ。稚内で一番きれいだと言っていいと思う。この貯水池は、昭和の初め稚内市の中央地区の共用栓に水を送っていたと言う。今は、道路も崩落し熊も出るので立ち入り禁止となっている。残念だ。

私の生家の庭には、このイタヤカエデが2本あった。元々、ここにあったのか、誰かが植えたものなのか、わからない。秋になると、一つは、赤く色づき、もう一本は黄色くなる。

この2本の木は それほど大きくならないが、我が家の記念写真を撮るときとかは、いつも、この木の前に並ぶ。我が家の象徴的な木だ。この木には特別な思い出がある。

小学校一年の、6月ころ、ユミちゃんと言う転校生が、街から来た。

帰り道は、私と同じだ。ある日、ユミちゃんが「うちに寄って行きなよ」と町言葉で誘ってくれた。本がたくさんあるよ、その言葉につられて 一緒に行ってみた。

いっぱい人形やら、おもちゃを見せてくれたけど、私は、夢中で本を片っ端から読んだ。

気が付いたら少し薄暗くなっていた。慌てて、走って帰った。

帰ったら、夕食どきになっていた。父は、血相を変えたように、どこに行っていたかを聞いた。

「ユミちゃんの家」に行ったことを言った。私としては、そんな悪いことをしたとは思っていなかったので、なんで、そんなにも怒っているのか、理解できなかった。

私が、謝らないことに怒って 父は、縄を持ってきて私を そのイタヤの木に縛り付けた。

私は、大声で泣いた。私の声は、隣のユキオちゃんの家にも聞こえたらしく、ユキオちゃんのお母さんが「ひでちゃん、謝りなさい。父さん すごく心配していたんだよ」と、おにぎりを一個持ってきてくれた。その、一個を食べ終わると、また大声で泣いた。喉も痛くなるほど泣いて、眠ってしまったようだ。

真っ暗になって、こっそり、母が縄を解いて、おんぶして家の中に連れて行ってくれた。母の背中は、いつも、小さい妹たちが占領していたので、すごく嬉しくて、母にしっかり抱きついたのを覚えている。その時の夜空のお星さまが、なんと綺麗だったことか。

その2本のイタヤの木の、いつまでも、紅くならない方は、アカイタヤの黄葉タイプらしい。

検索して、ようやく合点した。

(写真1)イタヤカエデの花

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(写真2)第二貯水池

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2023年1月29日 (日)

(106)「カサブランカ」

カサブランカ(ユリ科) 花期 8月ごろ

北見にいたときの、夫の同僚で、昔は家族で付き合いをしていたUさん。

7年ぐらい前から、時々写真とメールをくれる。

その、メールは、病気自慢?だったり、引いてしまうことも多く、返信できないでいるときも多い。だが、5年ぐらい前、見事なカサブランカの写真を送ってきた。「すごい!球根少しください!」と返信した。すぐに「駄目だ、これは墓参りに使う花なんだ」「あ、ごめん、ごめん」と言ったのだが「う~ん、ケチだなぁ。少しぐらいいいんじゃないの」と、思った。

 

また、そのうち「これ、息子の墓前に持って行きます」と、また、メールが来た。

あ、そうだ、長男のSちゃんが、数年前に亡くなったことを、人づてに聴いた。

それを思い出した。私は、大いに反省した。

(心の中だけど)ケチだなぁなんて、毒づいたことも恥じた。

 

逆縁と言う、最も悲しいことを経験したUさん。毎年、このカサブランカを育てて墓前に供えているようだ。今年は、グラジオラス数十本の写真とカサブランカ50本ぐらいの写真だった。

「グラジオラスは、少し終わり気味。カサブランカは、丁度だ!」

2種類の花を、お盆に間に合わせるように育てているようだ。

亡くなった息子さんを想う気持ちに、いつもながら胸が熱くなる。

 

カサブランカって、冠婚葬祭の花とも言われているのですね。

豪華ですもんね。

私も、人様に「ください」なんて、厚かましいことを言ってないで買えばいいんだ。

3年ぐらい前、カタログで「カサブランカ、アラカルト」を見つけて注文、植えてみた。

咲いて、びっくり!どうも、本物のカサブランカでないような気がする。

みんなには「綺麗ね」と言われるが、カサブランカは、イメージ的に「白」だ。

だって「白い家」と、言う意味もあるようだし。

 

我が家の花壇には、今年もビンクや、赤、黄色、華やかに咲く。

それを見ながら やっぱり、カサブランカは白だ。と、つぶやく。

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2022年12月27日 (火)

(105)「水木」(ミズキ)

ミズキ(水木)ミズキ科 花期6月ごろ

私は、子供のころからこの「水木」は知っている。牧場の中にもあるミズキ。お正月には、あの繭玉をつくる木だ。小学生の私は、鋸を持って この木の枝を採ってくる係でもある。最初は、父が教えてくれたのだ。「この木の枝には、節がない。枝が手のひらを上向きにしたようなので縁起がいい木なのだ」とも言った。名前は、木に多くの水分を含んでいることからのようだ。

 

お正月のことだが、私の生家は、鳥取県出身のおじいちゃん、秋田県出身のおばぁちゃんなので、どちら側のお正月の風習なのかわからない。

餅は、年末に 臼と杵で、何臼も搗く。繭玉も作る。餅は四角い。餡餅も、白餅、稲黍餅、蓬餅、子供たちも丸めることを手伝う。

大根膾、煮豆、金平ごぼう、煮しめ、昆布巻き、おばぁちゃんと母は、一生懸命 こまごまとご馳走づくりをする。鯨汁も、作っていた。

お正月が近くなると、子供たちもそわそわと嬉しい。「かるた」「すごろく」なども買ってくれる。羽根つきも、凧も買ってくれた。

木の箱のミカンやリンゴも、いっぱい馬橇に載せてくる父の姿が とても嬉しかった。

お正月は、下着も服も、ズボンも、新しいものに着替える。メリヤスのシャツと股引の繋ぎが懐かしい。父は、おじいちゃんが、「いい正月だ」と、言いながら酒を飲んでいるのが嬉しいようだった。父は、仔牛とか、豚とか「お正月用」と、言いながら育てて 12月には売っていた。

いつも、貧乏だったけど、お正月だけは、家族を喜ばせたかったのだろう。

夫の実家でも、餅つきは、一家総出(従業員の女の人も)だった。臼と杵で男たちが搗く。レストランは、年末年始が忙しい。忘年会(年取りと呼んでいた)は、12月の初めにやっていた。従業員さんも、この日、経営者の母から、お年玉を貰っていた。この頃は、みんな、親のために働いていて、給料は、毎月送っていた。お正月は、幼い弟や妹たちにも送っていた。今、思うと、これが当たり前の時代だった。

我が家のお正月は、滋賀県彦根の出身の夫の父。秋田県のルーツの函館出身の夫の母。そして、私の実家の正月を、都合のいいとこどり?している。

繭玉は作らない。餅つきは、機械だが、餡は手作り。お供え餅は、市販のもの。よく、姑が、必ず用意していた「口取り菓子」は、誰も食べないのでやめた。蟹や伊勢海老も運よければある。

大晦日は「手巻き寿司」に決まっている。「おせち」は、なるべく、手作りする。

おせちには、必ず、手作りの「飯寿司」が登場。うちの畑で獲れた枝豆の冷凍が大人気だ。

「伊達巻」と「栗きんとん」「栗の渋皮煮」は、娘の担当。「煮しめ」と「大根膾」「酢蛸」は、私の担当。札幌から息子一家は、ここ2年、コロナのために稚内に来ることができないでいるが、今年はどうなのかな?年々、簡素化したい気持ちもあるが、父の正月に対する気持ちも忘れてはならないと、思ったりする。

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2022年12月 1日 (木)

(104)「向日葵」(ヒマワリ)

ヒマワリ(向日葵)(キク科) 花期7月~9月ごろ

昨年のこと。ボランティア活動で出かけた帰り、知り合いの畑に寄ってみた。以前、ネイチャーラブの会員でもあった人なので時々、気楽に寄ってみることがある。「畑あるの?何か植えていいよ」と言ってくれた。畑は、家の周りに少し植えているだけなのだが、あれも、蒔きたい、これも植えたいと狭い土地に欲張り過ぎなのだ。できれば、カボチャとか、広い畑に植えたい。

それで、カボチャを植えさせてもらった。約100坪ぐらいの広さだ。嬉しい

なんと、何の世話も手入れもしないのに、びっくりするほど獲れた。いや、昨年は、連日、暑くて暑くて、稚内とは思えないほどの気温だったのだ。畑仕事は、疎かになった。

今年も、耕運機で耕していただいた。5月の連休明けに、ジャガイモを植えた。畑の横の、3本のスモモの花が、見事に咲いていた日だった。広い畑は嬉しい。また、欲張り心が。。。

ヒマワリも蒔いた。ヒマワリと言えば、ウクライナのことも思う。青空とヒマワリを撮りたい。もちろん、ウクライナの平和も願ってはいたけど、冬の餌台用でもある。みんなにもあげよう。

その後、昨年よりは少ないが、カボチャも植えた。調子に乗って ブロッコリーとズッキーニも。それが、間違い?の元だった。

我が家から、畑までは、車で約17分。国道から山道に入る。峠を下りると 利尻富士も見える。その山道も、通うのが楽しいものだった。山道の松の花、朴の花、時々撮った。

そのうちサビタ(ノリウツギ)も、美しく咲いた。

今年は、昨年と違い、一生懸命通うことになったのは、ズッキーニ2本のせい(おかげ)だ。

ズッキーニは恐ろしいほど大きくなる。中、二日もあけると巨大化している。ズッキーニのレシピも底をついた。誰か、もらってくれる人を探す。ズッキーニだけでは申し訳ないので新芋もつける。豆もつける。豆と言えば、今年は、嬉しい「十六ささげ」の種を友人に分けて頂いたのだ。

「私が嫁入りの時(たぶん50年ほど前かな)実家から数粒持ってきたものなの」と言う貴重な種子。緊張して蒔いた。それが、花が咲いて実をつけたときは、「あ、これこれ!」もう60年ぶりかも。子供のころを思い出した。

いつしか、畑では、キリギリスが、さかんに鳴く。もう、そんな季節になったのね。

邯鄲(カンタン)のBJMの中、ジャガイモ掘りをした。豊作だ。

 

あ、ヒマワリのことね。ヒマワリは、順調に、ダイナミックな花をつけた。青空の日、撮った。

私が、9月1日に脚の手術(下肢静脈瘤)で、2泊3日入院し、退院した翌日 暴風雨に見舞われ、頭花の重いヒマワリは倒れた。倒れたら、早速、誰かが食べている。「誰?」立っているのは、無事だ。姿は見ていないが 野ネズミかも知れない。野ネズミを養っている場合じゃない。小鳥用なんだってば。イタドリの葉が赤く色づいた日、全部採った。

カボチャは、友人が手伝ってくれて62個収穫。

いつの間にか、山道のイタドリは、骨だけになっていた。

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2022年11月 5日 (土)

(103)「千島笹」(チシマザサ)

チシマザサ(イネ科)(ササ属)花期6月~8月ごろ

今年の6月ごろから7月にかけて「笹の花」がよく目立って咲いていることに驚いた。

道の横にある笹の群落は、一斉に延々と色が変わるぐらい咲いている。ちょっと、林の中に入っても、笹の花が目立つ。

花が、咲くということは、「実」もつけるに違いない。それは、稚内だけかと思っていたら、礼文島も、利尻島も、全道的にも、咲いていたようである。幌延町の湿原の中でも見つけた。湿原にあるのは、クマイザサと呼んでいる。草丈もチシマザサよりは、少し低く葉の裏に毛があるのが特徴だ。チシマザサは、根曲がり竹とも呼ばれている。あの、食用として春に採るササタケの笹だ。

今年の7月の上旬、利尻に行った時。そこで、礼文でも利尻でも、あまりに咲いているので驚いて博物館の学芸員さんにもお聞きしてみました。

「笹の実」が たくさんつけた年の翌年は「ネズミが増える」とも言われているらしい。

思い出した。子供のころ、父が笹の花を見て「これは、60年に一度咲いて そして死ぬ」と、言った。私は「60年後だったら生きて見ることは出来るな」と思った。それが、調べてみると、100年に一度?120年に一度とも言われていると言う。

不作や、不吉の元凶とも、言われている笹の花。来年は、枯れた笹と、異常繁殖のネズミに注目したい。もしかしたら、今年の8月に、北の果ては、地震は皆無だと思っていたのに、震度5強の地震があった。天塩とかは、その後も何度か揺れた。これは、笹の花と関係があるのだろうか。その昔、「飢餓」からも救ってくれたとも言われている笹の実。どんな味なのだろう。古代の味でもするのだろうか?人間って、なんでも食用にすることに、感心する。

 

私は、毎年「飯寿司」(いずし)を漬け込んでいる。それは、もう30年以上にもなる。

その漬け込みに必要な「笹の葉」。防腐剤にもなり、いろどりもいいので、漬け込み前に「笹の葉採り」に出かける。笹の葉採りって、けっこう大変なのです。農薬や、肥料など かかるような場所を避ける。狐や、エゾシカの通らないところ。樹の下は、小鳥の糞もかかるし。車の埃もかからないところ。笹採り姫は、ハサミと袋を持って色々考えながら採るのです。

 

私の漬けている飯寿司の原料は、主にホッケだ。鮭も少し入れる。ソウハチカレイも、美味しいのだが、なかなか漬け込みの時期に、手に入らないこともある。

今年も、ヤル気ではいる。元々は、各家庭で、自家用に造られていたものだが、今は、水産加工場などで製造され販売することが主流になってきている。

各家庭の、その漬け込み人が、少なくなってきていて、もはや絶滅危惧種だ。お正月に食べるには、漬け込み期間40日を逆算して原料、その他を用意する。もちろん笹も、きれいに洗ってスタンバイ。年々、しんどくなってきたなぁと思いながらも、自分流のものが食べたいから 頑張って造る。

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2022年9月27日 (火)

(102)「秋桜」(コスモス)

コスモス (秋桜)(キク科 コスモス属) 花期 7月~10月ごろ

また「秋桜忌(こすもすき)」が巡ってきた。母の忌を、私はそう呼んでいる。風に身をまかせて しなやかに揺れるコスモスは、母の姿に似ているからだ。

先ず、母を語るには「介護」と言う言葉は外せない。姑の寝たきりの介護7年、夫(私たちの父)の介護15年。父は、脳梗塞を何度か繰り返した。もう、働くことが出来なくなって、やむなく離農した。

あの村で生まれた父は、断腸の思いだったと思う。

稚内に引っ越してからも、村の人たちが病院の帰りや、野菜を持って立ち寄ってくれたことが何より嬉しかったみたいだ。かつてなかったであろう、のんびり生活が始まった。

ある日、母に買い物を頼まれていたので、出かけるついでに午前9時ごろ訪ねたことがある。母が「あら、いいとこに来たね。今、戦争が終わったとこなの。洗濯機を3回回しながら、川中美幸の歌を3曲続けて3回唄ったの」洗濯室の干場には、ものすごい量の洗濯物が干してあった。

どうも、運動もしない父は、時々便秘になるらしい。苦しくなって病院から出ている下剤を飲んで、大変な目に遭ったみたいだ。母は大きな声で唄って、たぶん、心の中をすっきりさせていたのだろう。

晩年の父は、大きな椅子に座り、煙草の煙をくゆらせ、テレビを見ているだけだった。新聞を隅から隅まで読むのも日課だった。2階から「おじいちゃん」と降りてくる小さな孫たちに、目を細めていた日々。父の情けない姿は、孫たちにも、誰にも見られないようにと、いつも気を配っていた母だった。

「父さんはね、母さんでないと駄目なんだよ」と、誰にも手伝いはさせなかった。

父の「おい」が届く距離に、いつも母の「はーい」があって15年。

父は、最期まで父らしく85歳で逝った。葬儀は、故郷の人でいっぱいだった。

 

母は、若いころ、裁縫教室で、先生の代理もやっていたぐらい縫物が得意だった。嫁入りする村の娘さんたちの着物、自分の娘の着物もみんな母が仕立てたものだった。稚内に来てからも、いつも頼まれて着物の仕立てをやっていた。母のイメージは、いつも針を持っている姿だ。

母は、父の亡きあとの14年は、近くのバス停の隣に花畑を造り、コスモスなどを咲かせ、その花が縁で新しく友だちも出来た。いつ訪ねても 誰かが遊びに来ていた。

その友人たちも、病気になったり、亡くなったり、誰も遊びに来なくなった。ついに母も、ディサービスに、行くようになった。施設では、カラオケ大会などもあり、「今日はね「お富さん」で、優勝したの。みんな手拍子してくれたんだよ」と、賞品のタオルを私にくれた。

 

介護ばかりの人生だったのに、そこの施設に、自分から入所申込みして「今の時代は、介護はプロにお願いしたい。お金は、みんなで払ってください」と言った。

それは、母の本意だったのか、どうだったのか。私たちは、びっくりした。悲しかった。

入所してからは、今度は、かぎ針で毛糸の小物づくりして、みんなにあげていた。「あら、すごい!これオリジナルなの?」と聞いたら「そうだよ、オレジナルだよ。おれが考えたんだから」

誰かに喜んで貰うことが母の喜びでもあったのだ。

亡くなったのは平成231010日、93歳。コスモスが揺れる季節だった。

 

「置かれた場所で咲きなさい」(修道女 渡辺和子著)この言葉に触れた時、私は、母を想った。

まるで、この言葉のように、置かれた その場その場で明るく生きて来た母の姿を、娘たちは、忘れてはならない。もうすぐ、私たちにも伴侶の介護がやってくる。

 

<さすらひの猫にも家族秋桜>1990年作

<秋桜の風に召されて母逝けり>2011年作

<秋桜の家は優しい人が住む>2021年作

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2022年8月25日 (木)

(101)「牡丹」(ボタン)

ボタン(牡丹)(ボタン科) 花期6月ごろ

私たち家族は、昭和44年ごろから昭和50年まで北見市に住んでいたことがある。それは、夫の転勤によるものだ。前任地の旭川からボロボロの軽トラック(マイカー)に家族4人乗って北見に着いた。北見は、気候が道北と違って植物がよく育つと言う印象を受けた。

北見には、いいところがあるんだよ、と「牡丹園」と言うところに連れて行ってもらった。

それは、個人所有の庭園で、牡丹ばかりが数種類、見事に咲き誇り、その季節には、一般の人にも開放していた。

生で、こんな美しく、しかもダイナミックな花を見たのは初めてで驚きだった。

芍薬よりも、花の重たさが感じられた。

北見って、すごいなぁ、こんな牡丹が育つなんて。

 

昭和50年には、稚内に帰ってきた。また、元の肌寒い地に住むことになった。それはそれで、慣れると、それもいいもんだ。第一、夏は寝苦しくもないし。

稚内では、たぶん、牡丹は育たないだろうなと思っていたら、数年前から、あちこちに庭で見事な牡丹を咲かせている家を見かけることが多くなった。

6年ぐらい前、もう花も終わり「お値下げしました」と言う札を下げている牡丹(赤と白)を格安で買った。翌年は、咲くだろうと、特に「白牡丹」には、期待していた。

それは、「白牡丹」の句を作ってみたかったからだ。木槿だって、自宅の庭にあるからこそ、俳句も作れるのだ、と言う単純な理由だ。

 

<白牡丹といふといへども紅ほのか>高浜虚子

<ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに>森澄雄

そんな名句もできるはずもないのだが、毎年、その季節になると一句ひねる。

 

雪囲いもして、支柱も立てて我が家の一等地?に植えていたのに、大事な白牡丹が折からの暴風雨に根元から、いきなり折れた。支柱も倒れていた。やっと4個の蕾を付けていたのに。

お値下げものでも、2年は、見事に咲いてくれたのに。

昨年は、もちろん無理だった。今年は、根元から小さい芽が出てきた。嬉しい。

来年は、いやその翌年は咲けるだろうか。

白牡丹の名句はできるのか。

 

<病む人の視線の先に牡丹あり>2021作

<艶やかに逝くと決めゐし夕牡丹>2022作

 

写真は、在りし日の白牡丹

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2022年7月28日 (木)

(100)「礼文岩蓮華」(レブンイワレンゲ)

レブンイワレンゲ(礼文岩蓮華)(ベンケイソウ科) 花期10月

昨年のこと、礼文島在住の写真家、杣田美野里(そまだみのり)さんが、お亡くなりになった。

春から、北海道新聞に「花と語れば」花の写真と、短歌が添えられたエッセイが始まった。毎週、日曜日を楽しみにしていた。これが始まってから、時々電話が来た。いつもの明るい声で「トリカブト、何のために毒があると思う?来週、リシリブシなの」「え?私に聴いても無理だよぉ」

私は、そんなこと考えたこともない、いい加減なやつなのに。しっかりと知りたかったのでしょうね。申し訳なかった。それよりも、闘病中の人とは思えないほど元気な声に安心した。

その8月の中頃「キャンサーギフト 礼文の花降る丘へ」と、言う「エッセイ+写真+短歌」が送られてきた。読んで、すぐにお電話した。お礼とお祝いと感想を言ったあと「これ、私のブログに載せていい?」「お願い、宣伝してね」

下記、ブログに載せた全文

自然写真家でもあり、エッセイストでもあり、歌人でもある杣田美野里さん(そまだみのりさん)5年前に「肺がん」の告知を受け、治療を続けています。このたび「キャンサーギフト」と言う本を出されました。美しい花々の写真、礼文の景色のほかに、珠玉の短歌が添えられています。

「ガンマ線のマスクの中で思うこと未来はあるのかこの身体にも」

「咲きながら一世のおわりに降るものをキャンサーギフトとわたしは呼ぼう」

「癌になったからこそ受け取れるもの」と言う意味の「キャンサーギフト」 この疋田でさえも涙がとまりませんでした。今、彼女は つらくて苦しい癌治療をしている途中です。きっと、きっと打ち勝ってくれるものと信じている疋田です。せめて、一冊でも多く この素敵な本を皆様に読んでいただくよう紹介するしかお手伝いが出来ません。 

↑ この文を書いたのは、8月の末 

そして 95日(ブログに追加)↓本日(95日)、美野里さんが永眠されたと言う知らせを受けました。本当にショックです。8月の末には、お元気な明るい声で私の携帯電話に電話をくださいました。「本を出したからって安心しては駄目よ。元気になって また復活劇の本を出さないとだめよ」と、私が言ったら「ふふ」なんて、笑っていました。覚悟していたのでしょうか?本当に残念でたまりません。「今、緩和ケアにいます」と言っていたのを思い出し 本を読みなおしてみたら、それは もう治療を受けないってことだったのですね。家族に見守られて、静かに逝ってしまったのでしょうか?まだ、詳しいことはわかっていませんが、できれば、あの礼文の丘を また一緒に散策したかった。合掌。(疋田英子)

9月末「北海道新聞」に

「利尻山 頂に神降り立ちて 海の子山の子来る来る冬が」この短歌と写真が最後だった。

エッセイは、なかった。

この可愛いレブンイワレンゲは、もう秋も終わろうとするころ小さな赤い花をつける。私も好きな花だ。

 

美野里さんへ 疋田英子 俳句3句

<秋逝くや花降る丘に送られて>

<鰯雲天女になった美野里さん>

<秋入没日あなたのいない礼文島>

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